第5回 予算6.5万までって言いましたけど

心機一転なんて言ったって、そんな上手いこといくもんじゃない。ましてや私は“エキストラの子”だ。どこぞのドラマの主人公のように、素敵な部屋が見つかって新しい仕事が決まって、新しい人生!なんて首尾よくいくわけがないのだ。

タネちゃんには悪いけど、私如きの文章がどこかに雇われるなんてどうにも信じがたい。ああ、スーツどこに仕舞ったっけなぁ・・・

 

がたっ、といきなり立ち上がった早坂さんは「ぴったりの部屋がありました」と言って、プリントほやほやの暖かい紙を私の前に置いた。

何がぴったりなもんですか、という半ば白けた気持ちで私は紙を持ち上げる。横から覗き込んだタネちゃんの髪がふわり、と良い香りがした。

私たちはしばらく押し黙って紙を見つめていたが、つい、自分のドモりも忘れて私は言った。

「ああの、私予算6.5万までって言いましたけど・・・」

 

そこにはほとんど新築の、ピカピカの室内写真がいくつも並んでいた。真っ白な室内は家具を置いていないのに既にオシャレで、キッチンはファミリーマンションかと見紛うほど立派な2つ口のIHコンロだ。

「はい、十分おさまりますよ!しかも駅徒歩10分以内です」

前言撤回。

人生は、たまにほんとうに、エキストラの子まで主人公にしてしまう。

私より嬉しそうな顔をして、タネちゃんはその紙を指指した。

 

「ねぇすっごい、セコムついてるって!!セコムって学校かよ!キレイだし安心だし駅近だし最新だし!」

 

顔を上げた私を覗き込んだタネちゃんが言った。

 

「夢みたいじゃん!ね!」

 

耳にタコができるほど聞いたその言葉に、こんな使い方があるなんて忘れていた。

かくして平凡が服を着ているような30歳、無職(アルバイト内定)、エキストラの子である私の新生活は唐突に幕を開けたのだった。

 

「あああの本当にこれ、セコムってあのセコムですか?」

第4回 部屋探し始まる

そうこうして、晴れて無職放免になった日の昼前、私は職安ではなく大阪にいた。

ヤケッパチだったが、いざ大阪駅に到着すると爽快さと不安で変な汗をかいていた。

3年もブログ上でやりとりしてはいるものの、会うのは初めてだったタネちゃんは、会うまでは緊張感で倒れそうだったが、会ってみるとなんてことはない。ブログの雰囲気そのままの明るい女の子だった。

快く部屋探しにも同行してくれた。

彼女は「オートロック・2階以上」しか書いていない私の手書きメモを元に、仲介業者の営業マンに条件を提示していく。

向きはどっちだとか、近くにスーパーはあるかとか、1Kなら冷蔵庫は廊下に置ける方がいいとか。

「どうして廊下がいいの?」

「寝てるとけっこう冷蔵庫ってうるさいの」

感心しきりだった。

紹介してもらった職場が梅田ということもあり、彼女おすすめの『京橋』に絞って探すことになった。

京橋は何と言っても利便性が高い。JRは環状線片町線・少し歩けば東西線まで使用できるほか、大阪人必須の交通網である地下鉄、鶴見緑地線も網羅している。その上京阪電車まで通っており、大阪市内はもとより京都・神戸へのアクセスも一本なのだ。

一昔前はあまり治安がよくなかったそうだが、最近ではその便利さから人気が急上昇しているんだとか。

しかし、私はその「治安が良くなかった」がどうしても気にかかる。

 

いろいろな条件をしょっぴいても、私が最優先で拘りたかったのがセキュリティ面での安心なのだ。

高校生の頃、帰り道で怖い思いをして以来、私は一人暮らしをする上で防犯にはお金をかけたいと思っていた。

また、私はズボラな割に料理が好きで自炊は絶対にしたい。まな板も置けないキッチンはチョットな・・・。

 

でも、タネちゃんの会社ではアルバイトとして雇われるのだ。

社会保険だって入ってもらえるか怪しいのに住宅手当なんてもちろん出ない。自腹で出せるギリギリの金額は6万5千円くらいだろう。

うーん、と唸って、一人暮らし用の1K・1Rでは、その2点を叶える部屋はなかなか無いんですけどね、と笑った営業の早坂さんはパソコンのモニターを睨む。

実は、正直にいえばこの時、本当は明日職安に行こうと考えていた。もちろん、地元でだ。

第3回 もしかしてライターさんですか?

「無愛想」が理由でキーパンチャーの派遣が更新されないと知らされた私は、憂さ晴らしにずいぶんほったらかしにしていたブログを開いた。それはもう10年以上続けている個人サイトで、紙とペンがもったいないから登録しただけの、まったく頼りない動機で始めたものだ。

しかしながらそんな戯言にもたまにコメントしてくれる奇特な人がいる。

>> Domoさんってもしかしてライターさんですか?

 

これは大阪のブロガー・タネちゃんで、ちょくちょくこうしてコメントをくれるのだった。

 

そこで私は初めて、この世にそんな仕事があると知った。令和時代に「ライター」も知らなかったとは恥ずかしい限りだが、無気力にもくもくと下を向いて生きてきた私にとって、そんな横文字の仕事を知る機会はほんとうになかったのだ。

しかし、すごく久しぶりに胸が高鳴るのを感じながら「求人 和歌山 ライター」と検索した私はすぐに失望する。

ここは本州最南端。この町にそんなハイソサエティな仕事があるはずなかったのだ。

>> いえいえ!ライターどころかもうじき派遣切りで無職です^^

 

自分で打っていながら、そのコメントのせいで傷ついていた。

気をつけていないと鼻から絶え間なくため息がぬけていく。

私は一体いつまで実家の2階で、もうとっくに本来の用途を終えた「子供部屋」で、こうしてパソコンを弄りつづけるのだろう。

やれやれ、お風呂にはいらなきゃ。水垢に目くじらを立てる母がもうじき階段を登ってくる頃だ。

パソコンを閉じようとしたその時、ポコン、と間抜けな音が響いた。

>>うちの会社ライター募集するんですよ~、大阪来ちゃいません?笑

一階で母が何か言っている。古くなった床を軋ませる足音がだんだん近づいてくる。私はじっとパソコンを見つめたまま、えも言われぬ激情がへそのあたりからこみ上げてくるのを感じた。

なんかよくわからないけど、今だ!って。

第2回 夕飯時の定番

以来、その話は我が家の夕飯時に母が話す定番になった。

同じ話をすり切れるほど聞かされるのも中々苦痛だったが、私はそれよりエキストラ扱いされて喜ぶ母の“小物感”がイヤだった。

でも、私は一度も両親に逆らったことはない。理由は単純で、私は吃音なのだ。

幼い頃からけっこうしっかりとしたドモリがある。それが恥ずかしくて部活動もバイトもしなかった。

私はいつもノートに書き殴るだけだった。嬉しかったことも、悲しかったことも、唇は一文字にぎゅっと閉じてペンを取った。

日記と呼べるほどのものではなかった。だって、紙とペンはわたしの口に過ぎない。最後のページが埋まると生ゴミにこっそり潜ませて捨てた。

 

エキストラの両親から生まれ、さらに吃音を言い訳にして引っ込み思案の私が「夢」なんてたいそうなものを抱くはずもなく、地元で生まれて地元で死んでいく予定だったのだけれど。

 

そんな予定が思いっきり狂ったのは、先月のことだ。

第1回「夢を持ちなさい」と言われて育った。

私の生まれ育った関西のはじっこの街は、なんの変哲もないし便利なわけでもない片田舎で、地名を言ったところで知っている人はほとんどいない。産業と呼べるものもないベッドタウンだったから、どこの家庭の親もそう言った。夢を持ちなさい。夢に向かって励みなさい、と。

だからか中学時代は、部活動に励む同級生のヒエラルキーが高かった。それは、夢に繋がっているイメージを周囲に持たせたからなんじゃないかって今は思う。

 

夢なんて正直よく分からなかったし、運動も苦手だった私は、高校を卒業するまで帰宅部に6年も所属した。けれどもうちの親はその部活動にはあまり好意的ではなくて褒められることはなかったのだけれど。

私の両親は、凡庸を絵に描いたような夫婦だった。一度、私の地元でドラマの撮影がされたことがあったのだけれど、その時野次馬で見に行った両親が撮影クルーに声をかけられると言う事件が起きた。

けれどもそれは、クルーが彼らを役者と間違えたのではない。

 

「エキストラさんはコッチ入って、撮影始まるから早く」